お寺へ向う坂の途中に1軒のお醤油屋さんがある。僕の散歩コースの話だ。
ある日、夕方にその前をとおりかかると、諸味かなにか、お醤油の香ばしい匂いがしてきたことがあった。醸造蔵の換気扇が弱々しくまわっている。店の暖簾はなかに仕舞い込んであって、少しだけ扉が開いていた。長屋のように奥行きがありそうな建物である。
人の気配はなかった。しかし、生活の音が店の奥から何となく聞えてくる。お鍋か何かの金属音、荒っぽい咳や話ごえ。店の奥は居間や台所の生活空間になっているのだろう。
夕食作ってるんやな、魚でも焼いてんのかな、漂う香ばしい匂いを嗅ぎながら、そんなことを勝手に思い描いていた。
僕はまた歩きはじめて、「暮らし」と「商い」が隣り合わせになったお醤油屋さんのことを考えていた。「自分の生活」と「仕事」の境界線が入り混じるような感じ。その二つの空間は、分け隔てられることなく地続きになっていることをふと思った。
いまの自分もそんなに変わらないなと思う。会社に勤めていたころは「自分の生活」と「仕事」が全くの別物だったのが、夫婦で仕事をはじめてからは、なんだかその境界線が曖昧になってきた。その感覚が不思議といえば不思議。
H.D.ソローは『森の生活(ウォールデン)』のなかで、「ひとつの中心点からいくらでも半径がひけるように、生き方はいくらでもあるのである」と言った。3年前、思い切って仕事を辞めて、妻と二人で「灯光舎」を始めた。僕はいま、「暮らし」のなかに「商い」があるイメージで日々を過ごしている。時々、いまの生活を選択した自分に少し半信半疑な気持ちになることがある。
Коментарі